夏が来ると思い出す、高い生垣の向こうに立っていた「あの人」の記憶。美しくも恐ろしいショートホラーです。
※音声で楽しみたい方は、こちらの朗読動画をどうぞ
夏が来ると、私はいつも、あの日の庭を思い出す。
青々とした芝生、むせかえるような花の香り。
そして、高い生垣の向こうに立つ、あの人のことを。
小学四年生の夏、私は両親に連れられて、父方の祖父母が住む古い屋敷へ向かった。
都会のマンション暮らしの私にとって、蔦の絡まる洋館のようなその家と、どこまでも続くかのような広い庭は、まるでおとぎ話の世界そのものだった。
私のお気に入りは、庭の隅にある樫の木から吊るされた、白い木のブランコ。
そこに座って本を読んだり、空想にふけったりするのが、何よりの楽しみだった。
その日も、私はブランコに揺られていた。
きぃ、きぃ、と心地よい音を立てながら、物語の世界に没頭していた。ふと、誰かに見られているような気がして顔を上げる。
視線の先、庭を囲む高い生垣の向こうに、それはいた。
白い、つばの広い帽子。
帽子から覗く、わずかな顔。
生垣は優に二メートルは超える高さがあったが、幼い私はその人がどれほど背が高いのか、想像もつかなかった。
彼女はただ、じっと、私を見ていた。
風に乗って、
「ぽ、ぽ、ぽ…」
という奇妙な音が聞こえてきたが、近くの林でキツツキが木を突いている音だろうと、私は気にも留めなかった。
次の日も、その次の日も、私がブランコに乗ると、その人は必ず現れた。
日に日に、生垣から覗く顔の面積が大きくなっていく。切れ長の目元には艶があり、白い肌には日差しが反射して淡い金の光が差していた。
私は得も言われぬ高揚感を得ていた。
夢のように美しい人が縁もゆかりも無い自分に感心を寄せている、その事実に。
なんというか、特別な彼女に特別視されることで、自分の価値が高まったような、後ろ暗い自尊心が満たされる感覚もあった。
知らない人への警戒心なんて、どこかに飛んでいってしまっていた。
その日の夕食。祖母が作った温かいシチューを頬張りながら、私は無邪気に言った。
「お庭にね、いつもいるの。背が高くて、すっごく綺麗な、白いワンピースのお姉ちゃん」
ぴたり、と空気が凍った。
祖父が持っていた箸が、かちゃんと音を立てて床に落ちる。
祖母はみるみるうちに顔から血の気を失い、震える声で私に詰め寄った。
「美咲…! どんな人だったの? 何か話しかけられた?」
「ううん、見てるだけ。でも、とても綺麗な人だよ」
私の言葉を聞いて、祖父が絞り出すように呟いた。
「…八尺様だ」
その夜、私は有無を言わさず、離れの客間に連れて行かれた。
普段は物置として使われている、かび臭い部屋だった。
「どうして? あのお姉さんは優しい人なのに!」
泣きながら抵抗する私を、祖父母は必死の形相で部屋に押し込めた。
部屋の四隅には、こんもりと塩が盛られ、窓という窓、扉という扉には、見たこともない文字が書かれたお札がびっしりと貼られていく。
「いいかい、美咲。朝の七時になるまで、何があっても絶対にここから出てはいけない」
祖父が、震える私に屈んで言った。
「誰かがお前を呼んでも、絶対に返事をするんじゃない。たとえ、おじいちゃんやおばあちゃんの声がしても、だ。わかったな?」
最後に、祖母が小さな銀細工の手鏡を私の手に握らせた。ひんやりとしていて、重い。
「これがお守りだから。絶対に、絶対に離しちゃだめよ」
そう言い残して、二人は部屋を出ていった。がちゃん、と外から鍵をかけられる音がして、私は完全に一人になった。
どれくらい時間が経っただろう。心細さで膝を抱えてうずくまっていると、遠くからあの音が聞こえてきた。
「ぽ、ぽ、ぽ、ぽ…」
音はだんだん近づいてくる。そして、部屋のすぐ外でぴたりと止まった。
コン、コン、コン。
古びた窓ガラスが、指で優しく叩かれる。私は息を殺した。
『美咲ちゃん』
優しい、絹を思わせる声だった。昼間に見た、あの美しい人にぴったりの声。
『美咲ちゃん、どうしてそんな所にいるの? 怖かったでしょう』
窓の外で、声が続ける。
『さあ、ドアを開けて。私と一緒に遊びましょう?』
私は固く目を閉じて、首を横に振った。祖父母の言いつけが頭の中で鳴り響く。
『あら、残念。…そうだわ』
声は楽しそうに弾んだ。
『あなたにぴったりの、素敵なお土産を持ってきたのよ』
するり、と。
建て付けの悪いドアの下の隙間から、何かが差し込まれた。
純白のレース。艶やかなシルクのリボン。それは、まるでお姫様が着るような、豪華なドレスの裾だった。
『ほら、綺麗なドレスでしょう? あなたならきっと似合うわ。さあ、受け取って』
私は、吸い寄せられるように立ち上がっていた。
七五三のときどれだけお願いしても着せてもらえなかったドレスが頭をよぎった。
ああ、ドアの向こうには、夢のような素晴らしい世界が広がっている。
あの美しい人が、私を待っている。
頭の中で、「開けてもいい」という声がささやいている。
私は、ゆっくりと引き戸に手を伸ばした。
その瞬間。
ぎゅっと握りしめていた手鏡が、氷のように冷たくなった。
ハッとして手の中を見ると、あれほど磨かれていた鏡の表面が、墨を流したように真っ黒に曇っている。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
耳に届いていた優しい声が、ぐにゃりと歪む。
『…さあ、ぽぽっ、あけなさい。ぽぽぽ、いいこだから、ぽぽっ…』
美しい声の合間に、獣のような、異質な音が混じる。
恐怖で全身の血が逆流するような感覚に襲われ、私はその場にへたり込んだ。
「いやっ…! いやぁぁぁっ!」
耳を塞いでも、あの声と音は頭の中に直接響いてくる。
魅惑的な囁きと、不気味な音が、朝の鐘が鳴るまで、一晩中、私を苛み続けた。
意識が朦朧とする中、時計の鐘の音で目がさめた。
ぴたりと声が止んだ後も、何度か鐘の音は聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、夜が明けていた。お札が貼られた窓の隙間から、朝の光が差し込んでいる。
ドアが開き、憔悴しきった祖父母が部屋に飛び込んできた。二人に抱きしめられても、私はただ、震えることしかできなかった。
その日のうちに、私は半ば追い出されるようにして、両親の待つ都会へ帰された。
別れ際に私の目を見て言った祖父の言葉を覚えている。
「美咲、約束だ。もう二度と、この土地の土を踏んではいけない」
あれから二十年。
私は結婚し、一人の娘を持つ母になった。
娘が、あの夏の私と同じく、庭で無邪気に遊んでいる。幸い、娘の口から「背の高いお姉ちゃん」の話が語られることはない。
それでも、私は時々思い出してしまう。
夏の夕暮れ時、風が奇妙な音を立てるたびに。
もし、あの夜。
私がドアノブを回し、彼女の手を取っていたら、どうなっていたのだろう。
あの扉の向こうに優しい時間の続きがあったのでは、と後ろ髪を引かれてならない。
あの甘い誘惑の声と、真っ黒に曇った手鏡の冷たさ。
恐怖と憧れが入り混じったほろ苦い記憶は、今も私の心に手形を残し続けている。
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